かつて石垣島にあった焼き物”八重山焼き”
八重山では17世紀後半から瓦を焼いていたが、1724年、後に名陶工といわれた那覇の仲村渠致元(なかんだかりちげん)を招へいし、山田平等に窯を築いた。最近まで、その山田平等は字宮良の高山と考えられていたが、それはバンナ岳近くの字石垣平川俣に存在する窯跡であることが、古文書、その他のものから判明した。
窯は仲村渠致元が八重山を去った後の1729年、条件の整っている字大川の黒石川に移転。また、1755年頃、字石垣西長間原に平田窯を築いた。
八重山の行政庁である蔵元には壺瓦方が設けられ、それらの窯を管理したが、1893年、その壺瓦方は廃止された。
なお、宮良の高山は、もともと宮良村の窯であり、戦後しばらくまで瓦、陶器の類を生産した。
現在、これらのものを総称して、八重山焼きと呼んでいる。
このように八重山焼きを石垣市立八重山博物館では紹介されています。
僕は石垣市立八重山博物館への訪問をきっかけに、「八重山焼き」を知りました。
博物館の八重山焼きは、日用雑記のほかに徳利や壺類や荒焼などが展示されていました。その中でも特に印象に残っているのが、ヒョウタンの形で口の部分が広がっている徳利と、飴釉のカラカラでした。
沖縄本島から荒焼と上焼が伝承されたこともあって、その沖縄独特の大胆さというのを、この展示されている八重山焼きからも感じました。
また、近年になってから八重山焼きは”骨董”の世界で注目されはじめているそうです。
石垣島は岩石の多い島で、鉄分の多い赤土から磁器の原料とされる土まで採れるほど地質が複雑だそうです。
粘土が採れることもあって、現在石垣島の中には多くの焼き物の作家がいます。
その中でも、石垣島出身で”八重山焼き”の文脈の中で制作をされている宮良断さんという方います。宮良さんが制作した陶器を販売しているお店があるので行ってみました。
manimanimag.jp こちらでも宮良さんのお店が紹介されています。↑
宮良さんはとても素朴そうな方でした。都内でもよく個展を開催しているので、機会があれば伺ってみようと思います。
僕自身もいつか石垣島で作陶できる日を青写真に描き、制作を続けていこうと心に決めた日でした。